芝生城

別名-  付近住所 徳島県三好市三野町芝生  現在- 
2009/9/21 案内板アリ 日本城郭大系


三好義長
三好長之
三好之長
三好長秀
三好元長
三好長慶
戦国大名「三好長慶一族」の本拠地
寛正年間(1465年ごろ)小笠原家11代義長は、池田の大西城を廃し芝生城を築き、姓を三好と改めここを居城とし、三好氏の家祖となったという。以後、2代長之、3代之長、4代長秀、5代元長、6代長慶まで、芝生城は三好氏の本拠地となった。三好長慶は、大永2年(1522年)2月13日芝生城において産声を挙げた。長慶を身籠もった母は、吉野川の清流で水ごりをとり、「天晴れ、英雄英傑を生ませ給え」と念じたという。
天文元年(1532年)堺から帰国していた長慶は、父の戦死後奮起し、翌年12歳を以て芝生城を出陣、勝瑞城(藍住町)を経て、再び畿内に進出した。折しも抗争中の管領細川晴元と、一向宗本願寺光教の和議を調停するなど軍功を挙げながら一進一退を重ねたが、天文19年(1550年)ついに京の都を征覇し、最高実力者の座を掌中に収めるに至った。
一方、乱世の教養人としての長慶は、茶道や連歌の分野にも長じ、凡そ権謀術数には縁遠い側面も持ち合わせていたのである。京畿一円と、中・四国の9か国を支配する天下人にまで出世した長慶だが、永禄7年(1564年)7月4日、不運にも河内国飯盛城で病死、享年43歳だった。その後、天正年間(1575年ごろ)に勝瑞城主三好長治滞城の伝承もあり、正確な芝生城廃城の時期は不詳だが、少なくとも長慶病没までの凡そ100年間芝生城は三好一族の拠城であったとおもわれる。城下は芝生上の河岸段丘全域に広がる約100町歩(ヘクタール)に及び、周辺を断崖と空堀に囲まれた城跡のここ殿屋敷は凡そ2町歩を擁する要害、景観の地でもある。
城址は江戸時代後期の文化文政(1802〜1827年)に至って開削導水された「三村用水」の恩恵に浴して以来、農民が待ち望んだ黄金の稲穂が波打つ田園地帯に変貌した。いまは「兵ものどもが夢のあと」往時のよすがさえ伺い知ることは出来ないが、三好一族の繁栄と活躍の一時期に思いを馳せ、壮大な歴史ロマンの夢を描いてみましょう。